中国の海洋パイオニア
英雄「鄭和」が率いた大船団
執筆:冨田 修一(監事、株式会社知財コーポレーション 代表取締役社長 最高執行責任者(COO))
翻訳業に身を置いていると国や文化の間には種々多様な「翻訳」があることが当たり前ですが、一般の方々にとっては「翻訳」というと、実務・ビジネス系の翻訳よりも「出版翻訳」や「映像翻訳」といったエンターテインメントの系統がイメージがつきやすいことがあるようです。成程、エンターテインメントにおいては登場人物や舞台背景が概ね元の言語のまま登場するわけで、実務・ビジネス用に「自国語として」アウトプットされたものよりも、国や文化の違いをより感じやすいのでありましょう。
エンターテインメントの王道といえば歴史活劇ですが、こと中国は英雄の物語に事欠くことがありません。そこで今回、雅訳ブログ第 5 弾では中国の海洋に向けたロマンの歴史を少し探ってみたいと思います。
海洋国家と大陸国家
日本は紛れもない「海洋国家」ですが、周囲を 100% 海で囲まれているのでもう少し平たい言葉では良くも悪しくも「島国」ということになります。古代からの海洋国家としてはやや遅きに失した感はあるものの、ようやく 1995 年に 7 月 20 日(その後、第 3 月曜日に変更)をずばり「海の日」とする国民の祝日(休日)が制定されました。
一方、中国は一般に大陸国家とされますが、海洋への探求心とはるか彼方の諸外国との交流を求めて古の時代より大洋に向けた航海を積極的に進めていました。古代中国の四大発明の一つと言われる「羅針盤」も、星占いから航海技法へと技術イノベーションによる進化を遂げ、大航海においては必須のツールであったはずです。
中国羅針盤のひな型:「司南」と呼ばれる(By ping lin, CC BY-SA 3.0, Link )
そして、海にまつわる記念日は、本テーマの「鄭和」の大船団による航海出発日( 1405 年 7 月 11 日)の 600 周年記念として 7 月 11 日を毎年の「中国航海日」(休日ではない)とするよう 2005 年に制定されました。
中国流のスケール
鄭和(ていわ / Zhèng Hé )は、明王朝時代(1368-1644)の高名な永楽帝(1360-1424)が頼る有能な武将として武勲を重ねた英傑です。1405 年に永楽帝の命を受けて大船団を組み、中国の南京に近い港からはるか遠くのインドへ向けた第 1 回目の航海へと船出しました。これは、ヨーロッパ大航海時代のコロンブスやバスコダガマなどより百年近くも前のことでした。近年、中国ではその鄭和の功績が大いに見直され、上記「中国航海日」の制定となったわけです。
鄭和の像(By hassan saeed from Melaka, Malaysia – Admiral Zheng He, CC 表示-継承 2.0, Link )
中国では「怒髪天を衝く」「白髪三千丈」「飛龍直下三千尺」など様々に大仰な表現が多いですね。鄭和のはなしも、例えば、コロンブスやバスコダガマの航海の総乗組員はせいぜい 100 から 200 名のところ、鄭和の航海では乗組員がなんと 27,000 名もいたということから、当初はてっきり「怒髪天」の類かと疑いました。これは、しかしながら、文献などを読むと「怒髪天」でも聞き違いでもなく、当時の中国にはそのような造船技術と航海技術があったことが分かります。
具体的な数字でみると、中国歴史書の『明史』に拠れば、第 1 回目の航海では船の数は全部で 62 隻にのぼり、鄭和が乗船する親船(宝船と呼ばれる)は換算の仕方にもよるようですが約 137 メートルもあり、マスト 9 本、重量 8,000 トン、という巨大船舶でした。これは、現代の 500 トン級の船舶に匹敵すると言います。
百年もの時の差がある上にあまりのスケールの違いに驚きを超えた「痛快さ」を感じる話ではないでしょうか。さらに、痛快と言えば、これは真偽不明のようですが、実は新大陸を発見したのは鄭和船団で、コロンブスよりも約 70 年も早かったという話もあるようです。
鄭和の大航海と異文化交流
鄭和の大航海は 1405 年から 1433 年までに都合 7 回にわたり、南シナ海、マレー海峡、インド洋、ペルシャ湾、などを経て 30 か国以上の中国の遥な西方諸国を歴訪しました。アフリカでは、鄭和の船団乗組員が移り住み子孫の存在が DNA 鑑定で確認されており、子孫のうち一人の少女が中国政府負担で大学へ留学しているというニュースもありました。
鄭和大船団の進路(By Originally by Vmenkov on 2010-08-24, based on the blank map File:Asie.svg (ver. 1) by User:Historicair – http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Zheng-He-7th-expedition-map.svg投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, Link )
ところで、鄭和船団にまつわる記録はその多くが消失しているようですが、鄭和の通事を務めた馬歓が遠征の記録を残し今に伝えられています。その記録によると、第 7 回目の総乗組員数は 27,550 名もの大船団でした。そして、乗員の役割なども判明していますが、興味深い点が、通事、即ち通訳が 7 名乗船していたということです。どのような言語間の通訳かまでは記録されていないようですが、第 1 回から第 6 回までの遠征による経験から必要と思われる諸言語の通事を用意したのでしょう。
また、鄭和自身もムスリム(即ち、イスラム教徒)の子として生まれ 12 歳で明軍に拉致されるまでは両親と共に雲南の昆陽(現在の昆明の一部)で幼少時を過ごしました。この昆陽は、中東圏と明帝国の二つの文化圏が重なる地域であり、馬和(当時の鄭和の姓名)はそのような土地で多数の異言語・異文化に接してきたであろうことから、このような未知の海洋への大遠征を7度も敢行する人物として、彼も異なる人種、言語、文化などに対する豊かな感性を備えた人物であったはずです。
結びとして
さて、鄭和についてのストーリーは以上ですが、実は、2006 年に NHK による『偉大なる旅人・鄭和』というタイトルの大好評となった テレビ放送があったのです。私もその放送を観て鮮烈な印象を受けた記憶がいまだに残っており、今回の紹介となりました。
www.nhk-ep.com
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